島之内つうしん ≫ 島之内の名所・旧跡

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住友銅吹所跡

島之内エリアの北東の角にある「住友銅吹所跡」。
元々は住友銅吹所で、その後住友家邸宅になり、現在は公園になっている。

銅吹き諸日

江戸時代、日本は世界有数の銅産国だった。
なかでも大阪は銅精錬業の中心地であり、両横堀・長堀など水運に便利な堀川沿いに多くの銅吹所があり、ら全国の粗銅が集まり、精錬されていた。住友銅吹所は、1636年に住友家2代友似(とももち)によって開設した日本最大の銅精錬所で、日本の生産量の約1/3を精錬していたという。また「南蛮吹き」と言われる、銀と銅を分離する技術は世界水準だったそう。幕末の文政9(1826)年6月11日には鳴滝熟を開き、高野長英に医学を教えたオランダ人のシーボルトも見学しに来たとか。
銅吹所は1876年に閉鎖されるが、住宅は1915年までは住友家本邸として、1945年までは別邸として存在した。

銅吹き諸

この場所は平成2~4年に発掘調査が行われ、遺跡からは100基を越える精錬炉など銅の精錬や住友家に関する様々な遺構や遺物が出土した。公園の南西角には「銅吹所の炉」が残っておりガラス越しに見ることができる。

炉
「銅吹所の炉」。説明には「銅の精錬に使用された小型の炉で、中に据えた『るつぼ』で銅を溶かす」とある

公園の東側には洋風の建物「元住友家本邸内ビリヤード場」がある。
銅吹所廃止後、住友家の邸宅となり、明治12年には洋館や庭園がつくられ、ビリヤード場はその東側に建てられた。ビリヤード場玄関のアーチや円柱の飾りは洋風、壁は土蔵造り、屋根は瓦葺き。文明開化期に多く用いられた擬洋風とよばれる様式であるという。
ビリヤード場は明治25年以前の建築と考えられており、独立建物のビリヤードとしては、わが国最古のものとのことだ。

R0010943.jpg
「元住友家本邸内ビリヤード場」。残念ながら中には入れない

R0010935.jpg


公園には石の椅子やテーブルもあり、休憩場所として利用しやすい。
天気のいい日にはここでお弁当を食べるのも悪くないかも。


↓MAPはコチラ
住友銅吹所

↓島之内エリア位置図
島之内位置図
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心学明誠舎跡

島之内は学問の場所としても栄えていたらしい。

島之内北西の堺筋に面して建てられているのが、
江戸時代の私塾「心学明誠舎」跡の碑。
「ファミリーマート」の隣りの駐車場前だ。

心学明誠舎跡1

心学は江戸時代中期の思想家石田梅岩(1685年~1744年)が、享保14年(1729年)京都で唱えた庶民を対象とした教育運動。倫理学の一派。石門心学ともいう。日本固有の神道を軸として、儒教や仏教の長所を自由に摂取し、教理を日常生活に結びつけ、人としての正しい生き方をを説く。人間としての普遍的道徳を、平易な道話の形式で講義したので非常な人気を集め、全国に広がった。梅岩は、「商人の利は武士の禄と同じである」と説き、商行為の正当性を強調。大坂の商人達も梅岩やその門下生の手島堵庵を度々招いて聴講し、これが大阪商人哲学の原点といわれる「心学明誠舎」への設立へつながったという。当初は都市部を中心に広まり、次第に農村部や武士まで普及した。しかし、明治期に衰退。

心学明誠舎跡2
気づかずに通り過ぎてしまいそうな場所にある。
ママチャリが前にあったので、ヨッコイショと脇にどけて撮影


大阪の明誠舎は、梅岩の孫弟子井上宗甫によって天明5年(1785年)に開かれたもので、昭和13年まで同地にあった。

梅岩は、1685年(貞享2年)丹波国桑田郡東県村(現亀岡市東別院町)の百姓の子として生誕。京都の商家に奉公にでて、独学で神道、儒学を学ぶ。43歳の時、黄檗宗の禅師小栗了雲に師事して悟りをひらき、45歳で、京都・車屋町御池の借家で初めて塾を開いた。梅岩は、勤勉と倹約を自らが実践した人でもあった。「負けるが勝ち」とは梅岩が説いた言葉ともいわれているらしい。

調べていて、驚いたのが江戸中期に起こったその学問を今だ受け継いでいる人がいるということ。
しかも、近年欧米を中心に言われている「CSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)」の考え方を350年以上前から先どっていたという。シンプルな言葉でCSRの本質的な精神を表現した石田梅岩の思想は、近江商人の「三方よし」(売り手良し、買い手良し、世間良し)の思想と並んで、「日本のCSRの原点」として脚光を浴びているらしい。


社団法人「心学明誠舎」のHP 
http://www.ehle.ac.jp/meiseisha/


↓MAPはコチラ
心学明誠舎跡

↓島之内エリア位置図
島之内位置図

法案寺

高野山真言宗の寺院で準別格本山。詳名は法案寺南坊。
通称・日本橋聖天。山号は志宜山(しぎさん)。
本堂の歓喜天は「日本橋の聖天さん」とよばれ諸願成就、芸技上達、学業成就、商売繁盛の神として信仰されている。


門をはじめ、建物は戦災で焼失。すべて復元されたもの
法案寺


本尊は薬師如来で、本堂には聖観音・歓喜天(聖天)・不動明王・弘法大師などを祀っている。

平安時代後期の作といわれる木造聖観音立像が重要文化財に指定されており、元旦から一週間開帳される。


門を一歩くぐると、都会の喧騒から切り離された静寂の世界のような気がする

法案寺2


●歴史
寺伝によれば「推古天皇の頃(593年 - 628年)に聖徳太子が大阪市城東区鴫野に法案寺を建立。建立した場所の地名から山号を『志宜山』とし、仏法弘通の公案をしたところから寺号を『法案寺』とした」という。
後に生玉明神と習合して神宮寺の別当として隆盛。さらに後に衰微。 豊臣秀吉が大坂城を築城時に法案寺は法円坂町付近にあったが、天正11年(1583年)、生玉明神とともに馬場崎(大阪市天王寺区生玉町)に強制移転。
江戸時代になり江戸幕府から寺領300石を与えられて以降、歴代の大坂城代が法案寺に帰依したこともあり、隆盛した。
明治時代に入り、廃仏棄釈に遭って寺領を失った当時の法案寺住職・栄達は本堂から聖観音と聖天堂の歓喜天を持ち出し、明治16年(1883年)年6月に現在地である大阪市中央区島之内2丁目に法案寺を復興再建。
昭和20年(1945年)3月、大阪大空襲で、本堂・諸堂とともにすべて焼失。聖観音・歓喜天は焼失せず、現在、本堂に祀られている。



境内には弁財天・不動明王・地蔵菩薩などが祀られ、
弁財天は、「大阪七福神」の1つに数えられる。

「大阪七福神」は
・「三光神社」(天王寺区玉造本町)の寿老人 (富貴長寿のご利益)    
・「長久寺」(中央区田谷町8丁目)の 福禄寿 (延命長寿のご利益)    
・「法案寺」(中央区島之内2丁目)の弁財天 (智恵財宝のご利益)    
・「大乗坊」(浪速区日本橋3丁目)の毘沙門天王 (金銭融通のご利益)  
・「大国主神社」(浪速区敷津西1丁目)の日出大国神(福徳開運のご利益)  
・「今宮戎神社」(浪速区恵美須西1丁目)のえびす大神(商売繁盛のご利益)  
・「四天王寺」(天王寺区四天王寺1丁目)の布袋尊(笑門来福のご利益)   
 

法案寺3
七福神すべてお参りすれば、かなりご利益がありそう

↓法案寺のMAPはこちら
法案寺map

↓島之内の位置図はこちら
島之内位置図

安井道頓・道ト紀功碑

日本橋北詰東(島之内エリアの南西角)にあるのが、「安井道頓・道ト紀功碑」。

安井道頓石碑

1612年に安井道頓(やすい・どうとん)が私財をなげうって道頓堀の開削に着手。大阪夏の陣で道頓は戦死、従弟の道ト(どうぼく)が受け受け継ぎ、1615年に運河が完成した。当初は「新堀」と呼ばれていたが、大坂落城後、大坂を支配した松平忠明が成安の功績を評価して「道頓堀」と名付けたという。
その功績をたたえる石碑。


安井道頓を題材にした「けろりの道頓」という司馬遼太郎の作品がある。

碑石は、高さ約3m、幅約90cmの直方体の石柱。
大正3年(1914年)、天皇が来阪。功徳のあった先人を追褒し、安井道頓と安井道卜に従五位が贈られた。翌4年11月、大阪府知事大久保利武の発意で、道頓堀川各町からの醵金で建碑。
この石碑がある辺りは安井氏の屋敷があったそう。


道頓堀。日本橋から撮影。
道頓堀


今は、小さな公園になっている。
缶ジュースなどを買って、一服するのにちょうどいい。
が、鳩がやたら多い。

公園

公園の隅に古文書の展示が。
と思いきや、公園の美化に関する張り紙だった。
美化を促すには説得力もなく、ボロボロで読めない。

古文書


↓位置図はこちら
安井道頓・道ト紀功碑地図

↓島之内の位置図はこちら

島之内位置図

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凪井のん

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花
島之内で仕事をしています。
雑然とした雰囲気で、妙な懐かしさのあるこの場所に愛着があります。

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